「旧ドラを観た」で書いたように、2006年2月8日、旧ドラスタッフの真佐美ジュンさんとお会いして、旧ドラや、その他の関わっていらっしゃったアニメに関する貴重なお話を、お聞きする機会を得ました。ここでは、その時にお聞きしたお話の中で、個人的に以前から疑問に思っていた点について、Q&Aの形で真佐美さんのお話をご紹介いたします。
Q1.旧ドラでは、原作を基本としつつも、アニメオリジナルの要素が結構多かったようですが、どのような理由による物なのでしょうか。
A1.放映したのは1973年ですが、実際には1年ほど前から制作にとりかかっており、その頃にはまだ原作の話自体が少ない状態でした(※注1)。また、低学年向けの作品は、ページ数が少なくてストーリー性が薄いのでアニメ化は難しかったのです。だから、原作を元にしつつ、色々とアニメオリジナルの要素も入れました。半年の放送でも、後半はかなりオリジナルが増えたので、もし放送が続いていたら、完全にオリジナルストーリー主体になったと思います。
Q2.ガチャ子は、1クール目の最終話となる13話のAパートで初登場しました(※注2)が、2クール目に入るにあたってのテコ入れだったのでしょうか。
A2.ガチャ子は、当初からレギュラーとして考えており、第1話からEDアニメには登場させています。結果的に、タイミングとしてはテコ入れのような形になりました。原作で出番の少なかったガチャ子がレギュラーになったのも、原作数が少なかったためで、アニメでは最後までしずかの家に居候していまいた。
Q3.では、原作のストックも少なく、アニメ化しにくい時期に、どうして「ドラえもん」をアニメ化したのでしょうか。
A3.「ドラえもん」は、社長の渡邊が企画を立てました。元々、東京テレビ動画時代から任侠路線で来ていましたので、渡邊は「少年次郎長三国志」の企画を考えていましたが、それが難航したので、つなぎとしてアニメにできる漫画原作を探していました。そんな中で「ドラえもん」に決まったのです。他に候補があれば「ドラえもん」以外の作品をアニメ化していたかも知れません。
Q4.当時、視聴率が裏番組に比べてふるわなかったと言われていますが、どのように感じておられましたか。
A4.メインターゲットは学年誌で原作を読んでいた小学生だったので、視聴率は10%取れればいい方だと思っていました。また、日本テレビとしても、そのような意向でした。裏番組は、同じアニメの「マジンガーZ」だけでなく、「アップダウンクイズ」(※注3)も強力な番組でしたので、「ドラえもん」は、それらと被らない低年齢の子供の層を狙っていました。
Q5.旧ドラ制作中に、原作者の藤子・F・不二雄先生とはどの程度、打ち合わせをされていたのですか。
A5.藤本先生には、何度かお会いしています。しかし、チーフディレクターだった上梨満雄氏は、一度も会ったことがなかったようです。
Q6.最終回(※注4)は原作にもあった、ドラえもんが未来に帰る話でしたが、なにか特に思い出はございますか。
A6.最終回では、のび太が自転車の練習をする場面がありますが、私の子供時代に自転車を練習して父を迎えに行った思い出がありまして、その話でドラえもんの話を作りたいと思いました。それが、原作2本目の最終回を選ぶきっかけになりました。
※注1:1972年には、原作「ドラえもん」は、連載3年目。「小学三年生」「小学四年生」掲載分では15ページの作品もあったが、「よいこ」「幼稚園」掲載分は大半が1、2ページだった。
※注2:アニメでのガチャ子登場以前に、原作でガチャ子の出てきたエピソード「ロボットのガチャ子」が、「のび太は雨男の巻」としてガチャ子が登場しない展開でアニメ化されていた。
※注3:制作は毎日放送。1973年当時は「腸捻転ネット」解消前だったので、関東地区ではNET(現在のテレビ朝日)で、放映された。
※注4:最終回は、「小学四年生」1972年3月号に掲載された、ドラえもんが未来へと帰るエピソードを元にしている。一般に知られた「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻収録)とは、別物。
以上、真佐美さんから伺ったお話を元に、まとめました。ここでご紹介したほかにも、真佐美さんからは旧ドラや「ふしぎなメルモ」など、関わっておられた作品に関して、色々とお聞きする事が出来ました。また、残存している旧ドラの設定画等、非常に貴重な資料を見せていただき、私にとって、この日は大変貴重な体験となりました。
私の不躾な質問にお答えいただき、当サイトへの掲載も許可して下さった真佐美ジュンさんには、あらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。