「旧ドラ」と呼ばれるテレビアニメ「ドラえもん」第1作には、数々の謎が存在します。内容自体もさることながら、それ以前に、なぜあの時期に「ドラえもん」がテレビアニメ化されたのか、そして当時の反響はどうだったのか、など分からない事だらけです。
ここでは、まず第一部でそのような旧ドラの生い立ちから放映終了までにいたる経緯を現存する資料を基に自分なりに想像して、まとめてみました。そして、第二部ではそれ以外の色々な謎について、わかる範囲で調査結果を発表しております。
第一部には、私個人の想像による部分がかなり多く含まれておりますので「それは違うだろう」「ここは、こういう事ではないか」などのご意見がございましたら、掲示板またはメール(トップページ下をご覧下さい)でぜひご教授下さい。
1972年、雑誌「幼稚園」8月号の「にんきものチャンネル」コーナーを見ると、そこにはドラえもん(絵は原作者以外の筆による)の姿があり、「テレビにでるのをまっててね」と書かれている。これが、おそらく旧ドラ放映決定の初めての公式発表だろう。
この頃、日本テレビでは「ドラえもん」と同じく藤子不二雄(当時)原作の「新 オバケのQ太郎」(以下「新オバQ」)が放映されており、安定した人気を保っていた。そこで、その後釜として企画されたのが「ドラえもん」だったのではないだろうか。
新オバQの視聴者を旧ドラにそのまま引っ張りたかった局側の思惑は、のび太役に新オバQの正太を演じた太田淑子、ジャイアン役にはゴジラを演じた肝付兼太を配したことなどから推察できる。また、途中からレギュラー入りしたガチャ子役は、Q太郎を演じた堀絢子だった。
そして、1972年12月の「新オバQ」放映終了から3ヶ月のブランクを経て、1973年4月1日に旧ドラがブラウン管に姿を現すことになるのだった。
原作マンガ「ドラえもん」は、小学館の学習雑誌「小学一年生」〜「小学四年生」の4誌及び「よいこ」「幼稚園」の、合計6誌で1970年1月号(1969年12月発売)から連載されており、旧ドラ放映開始時には連載4年目に突入していた。学習雑誌の連載漫画は、4月号から始まって翌年の3月号までの1年間で終了することが多いので、「ドラえもん」の連載は、当時でもかなり長期の部類に入ると言え、すでに安定した人気があったと推察できる。
しかし、人気があるとは言っても、当時の作品発表の場は、あくまで学習雑誌に限定されていた。新オバQも、同様に原作漫画の連載は学習雑誌のみ(タイトルは「オバケのQ太郎」)だったが、こちらは旧作「オバケのQ太郎」(「週刊少年サンデー」他連載、テレビアニメは1965年〜67年にTBSで放映)の大ヒットにより、既にそのキャラクターは全国的に知られていたので、単純に「ドラえもん」と比較することは出来ないだろう。
「ドラえもん」に話を戻すと、現在では1億部を超えるロングセラーとなった単行本「てんとう虫コミックス」はまだ発売されておらず、旧ドラ放映開始当時の原作「ドラえもん」の読者はほとんど小学生と幼稚園児だけであり、読者層はきわめて限定されていたと言わざるを得ない。「コロコロコミック」の創刊も、1977年である。
現在は、1クール(3ヶ月)や2クール(半年)の放映を前提で制作されるアニメも多いが、1973年当時は、テレビアニメは人気があればどんどん続いていく時代だった。それにもかかわらず半年で放映終了してしまった事実から考えて、はっきり言ってあまり人気が得られなかったのだろう。具体的な数字はまだ確認できていないが、視聴率も低かったと思われる。
それでは、なぜ人気が出なかったのか。この点について、アニメ雑誌や書籍など各種資料を参考にして色々と推測してみた。以下のようなことが理由だったと思われる。
1.原作をアレンジした部分が受け入れられなかった
2.最初期の原作を元にしたキャラクターデザインに違和感があった
3.そもそも、原作の知名度が低かった
4.強力な裏番組が存在していた
1.についてだが、放映時のサブタイトルに「…騒動」「…大騒動」などと付くものが多いことから、原作と比べてドタバタ味が強かったのではないだろうか。しかも、連載1年目に半年間だけ登場してすぐ消えてしまった幻のキャラ「ガチャ子」まで登場している。詳しいことはこちらを参照していただきたいが、ガチャ子は騒動を起こして話を引っかき回すだけの役割しか与えられておらず、ある意味初期のドタバタ路線の象徴的存在だった。その後、原作「ドラえもん」が道具中心の話作りになると、ガチャ子は姿を消している。このような、原作者自身が退場させたキャラをわざわざ出した事から考えても、意図的にドタバタ味を強くしたと考えられる。
また、作品の方向性については「アニメージュ」1979年4月号(シンエイ版アニメドラが始まる直前)に掲載された脚本家の鈴木良武氏のインタビュー記事からも、ある程度想像できる。以下に全文を引用する。
「ドラえもんが居候している家のノビ太(原文ママ)たちがSF的な道具を使ってドラえもんを助けるんですね。それに、ポケットの中の小道具を使えばなんでもできるから、おもしろいことはおもしろかったけど、ズッコケ性に欠けて、オバQほどのびのびと活躍できなかったといえますね。かえって、ワキ役の人間のほうがとぼけていましたよ。そんなことから、なかなか主人公になりにくくて、その点とても苦労しました。」
この文ではドラとのび太の関係が逆になっているが、これはおそらく鈴木氏の勘違いだろう。氏は「新オバケのQ太郎」の脚本も手がけていたので、旧ドラでも同様のドタバタ路線を狙ったのではないだろうか。
確かに「ドラえもん」も原作初期、単行本だと5巻くらいまではかなりドタバタ色が強い。しかし、旧ドラが始まった頃は既に連載4年目に入っており、ドタバタ色は薄まって、道具を中心に話が進む「ドラえもん」のスタイルが確立されていた。旧ドラスタッフは新オバQを意識しただけでなく、作風が変化してスタイルの確立しつつある「ドラえもん」と言う作品をつかみきれずに、初期のドタバタ路線に重点を置いてしまったのではないか。
2.は、「アニメージュ」1996年12月号の藤子・F・不二雄先生追悼特集および、1979年4月号に鈴木良武の記事と共に掲載されている旧ドラの場面写真で確認した。これらを見る限り原作の連載1年目の絵柄に近く、ドラえもんはずんぐりむっくりで、のび太の鼻はとんがっている。これでは、旧ドラ放映当時リアルタイムで学習雑誌の連載を読んでいた人にとってはかなり違和感があったのではないだろうか。
3.については、「2.当時の原作ドラについて」で書いたとおりである。
加えて、4.のように「ドラえもん」放映開始時に裏番組が子供たちの心をガッチリつかんでいたことも非常に不利な要因だったのだろう。その強力な裏番組とは「マジンガーZ」である。「ドラえもん」に先立つこと4カ月、1972年12月よりフジテレビ系列で始まったこのアニメは大ヒットして、たちまち視聴率は20%を超えた。巨大ロボット路線を確立して、2年近くの間放映された作品だ。
「マジンガーZ」と旧ドラの視聴者層はほぼ同一と思われるので、後発の旧ドラが半年で終了してしまったのは、マジンガーの視聴者を取り込むまでに至らなかったと考えられる。わざわざ旧ドラをマジンガーの裏にぶつけたのだから、当時の日本テレビの編成担当者は十分対抗できると考えたのだろうが、残念ながらそうは行かなかったようである。
また、掲示板でご指摘いただいたのだが、他にも旧ドラの裏には「アップダウンクイズ」と言う人気番組があった。1985年まで続いた長寿番組であり、旧ドラ放映当時も安定して高い視聴率を取っていたため、余計に旧ドラの入りこむ余地がなくなったのではないだろうか。
(追記)
旧ドラ制作者の真佐美ジュンさんに伺ったところ、視聴率は悪かったわけではなく、特に後半はかなり健闘していたとの事。「マジンガーZ」よりも更に低年齢の視聴者を狙ったそうだ。旧ドラが半年で終了したのは、視聴率ではなく制作会社の日本テレビ動画が解散してしまった事による。解散の詳しいいきさつは、真佐美さんのサイトで述べられている。
また、旧ドラ放映開始時には、連載は4年目に入っていたが、実際に制作が開始された時には最初の2年分しか原作がなかったので、初期のドタバタ路線で作られたのは自然な流れだったと考えられる。
旧ドラは、半年という短い期間で終了したが、学年誌の読者以外にも「ドラえもん」という作品の存在を知らしめた役割は大きいだろう。旧ドラの放映が、翌年のてんとう虫コミックス刊行につながったとも考えられる。また、原作の連載が「小学五年生」と「小学六年生」の2誌に拡大された事も、旧ドラ放映を受けての事だろう。
しかし、旧ドラ終了から6年間、藤子アニメの空白時代があったことも、また事実だ。その後、新たな藤子不二雄ブームの幕開けとなったのは、シンエイ版「ドラえもん」だった。「ドラえもん」で途切れた流れが、再度「ドラえもん」によって復活したのだから面白い。しかし、旧ドラが半年で終わったため、原作者・テレビ局共に「ドラえもん」の再アニメ化には難色を示し、実現までには大変な苦労があったという。それはまた別の話となるが、これは旧ドラによるマイナスの影響と言えよう。
植田禎明さんから「くるった腹時計の巻」の録音テープを頂いたので、旧ドラの各キャラの声を聞く事が出来ました。メインキャラの声についてはほぼ全員確認することが出来たので、どんな感じか紹介します。なお、初代ドラえもんの富田耕生氏は「くるった腹時計の巻」には登場しないので「あいしゅうのドラえもん」の歌声とセリフを参考にしました。
初代ドラえもんの声は、大ベテランの富田耕生。富田氏と言えば、「マジンガーZ」のDr.ヘル、「プロゴルファー猿」のおっちゃん、「平成天才バカボン」のバカボンのパパなどヒゲの生えたおっさん役が多く、ドラもやはり「ヒゲの生えたおっさん」になってしまった。
ドラの声は、富田氏の中ではかわいい系統の声で「魔法使いチャッピー」のドンちゃんなどに近い感じである。しかし、現在この声だけ聞いてドラを連想するのは不可能に近いだろう。
あまりにもおっさん臭かったせいか、わずか3ヶ月で富田耕生は降板、野沢雅子に交代となった。
「ドラゴンボール」シリーズの孫悟空など元気な少年役が多い人だが、この2代目「ドラえもん」もその例にもれず、妙に陽気で明るい感じになってしまった。「〜なのよ」などと妙な女言葉が混ざるのも特徴。喋り方はもっちゃりしていて、シンエイ動画版「怪物くん」の怪物くんに近い感じだ。
シンエイ版(大山時代)ではセワシ役で時たま出演していた太田淑子は、旧ドラではのび太役だった。旧ドラの前年まで放映していた「新オバケのQ太郎」の正太役に続いての藤子アニメ登場である。
太田氏の少年役と言えば「ヤッターマン」のガンちゃんなどがあるが、こののび太はガンちゃんのように元気ではなく、どちらかと言うとセワシが少し気弱になった感じだろうか。
この方はよく知らないのだが、旧ドラと並行して放映されていた「ジャングル黒べえ」でもタカネ役で出演しており、同時に2本の藤子アニメでヒロイン役を演じていたことになる。ヒロインにふさわしい、かわいらしい声。
肝付氏と言えば藤子アニメの常連で知られており、当然のように旧ドラにも出演していたのだが、何とジャイアン役。スネ夫ではない。おそらく「パーマン(旧)」のカバオや新旧「オバケのQ太郎」のゴジラ役での実績を買われてのキャスティングだろう。そう思って聞いてみると、シンエイ版(大山時代)のスネ夫よりは太めの声であるが、今聞くとやはりスネ夫の顔を思い浮かべてしまう。
スネ夫役の八代駿は、昔「トムとジェリー」のトムを演じていた。旧ドラと同時期の作品としては「山ねずみロッキーチャック」のかけすのサミー役がある。ちょっとかすれた感じの声は、スネ夫のイメージには合っている。旧ドラでは、時にジャイアンより強い立場で、特に意地悪な所もあったが、上手く演じられていた。
シンエイ版(大山時代)でのび太を演じた人が、かつてはのび太のママを演じていたのだから、今となっては面白いキャスティングだ。本人の言葉によると、
「世の中の常識や年齢に逆らって生きるのが私の運命のようだ」(「テレビ・アニメ最前線」より)
との事。
大人の女性役だが、ドロンジョ様などのようにきつい感じではなく、むしろシンエイ版(大山時代)のママ(声・千々松幸子)よりも優しい感じがする。原作初期のママはのび太には甘かったので、当時としてはママのイメージに合っていたのだろう。
村越氏は、長年「サザエさん」のノリスケ役を担当していた。そのせいか、どちらかと言うと、やせ形のキャラに合う声のような気がする。のび太のパパにしてはちょっと声が軽いように感じたが、のんびりとした性格のキャラなので、悪くはない。
パパ同様の「サザエさん」つながりなのかどうかは知らないが、スネ夫のママは2代目カツオ役の故・高橋和枝。甲高いキンキン声はシンエイ版・スネ夫のママにもかなり近い。外見から来るイメージ的には、スネ夫のママは誰がやってもああいう声になるのかもしれない。
堀絢子と言えば、旧ドラの前年まで放映していた「新オバケのQ太郎」のQ太郎だ。ガチャ子自体テコ入れで登場したと思われるキャラだが、そのガチャ子の声に堀さんを起用したことからも、力の入れようが伺える。肝心の声の方はQ太郎よりもむしろ、後年の「チンプイ」のチンプイに近い感じで、堀さんの声としては高めだった。
旧ドラ関係で現在でも触れることができるのは、CDに収録されている主題歌くらいのものでしょう。CDのタイトルについては後述し、まずはCD未収録の2曲も含めてどんな歌なのかを紹介します。
オープニングの作詞は藤子先生であり、ほぼ間違いなく藤本先生作詞と思われる。「ぼくドラえもん」などと同じくF先生が得意とする意味不明の歌詞に、何を間違ったか非常に泥臭い曲がついてしまい、妙に暗くて古くさい感じの歌になってしまっている。
更に、「ハードラドラ」などのバックコーラスを担当する劇団NLTの歌声が怪しさを倍増させている。時代がもう少し後ならば、おそらくこおろぎ'73が担当したのだろうが、劇団NLTの歌声は妙に力が入っていて異様な雰囲気を醸し出している。
なお、この曲を歌った内藤はるみは、「日清ちびっこのどじまん」(フジテレビ)に堀江美都子やかおりくみこと同時期に入賞した「ちびっこ歌手」の1人で、旧ドラ以外でCD化された歌には「夕やけじぞうさん」(キングレコード「黄金時代シリーズちびっこソング編」KICS2264収録)があり、日本コロムビアからは「ちびっこポップスシリーズ」の歌として「若い太陽」(1969年5月)、「純愛一路』(1970年6月)、「光がこぼれる街で」(1973年8月)等をレコーディングした。劇団NLTは、1964年に「グループNLT」として発足し、1968年に「劇団NLT」となった。公式サイトもある。この歌のバックコーラス参加メンバーは、今のところ不明。
曲自体のテンポは結構いいが、作詞がF先生でないせいか「コンピューターが友達」「光線銃がものいう」など、「ドラえもん」の世界がよくわかっていないのではないかと思えるような、意味不明な歌詞が続出している。光線銃にものを言わせて、一体何をしたかったのだろうか。
なお、エンディングテーマのタイトルは旧ドラ放映当時に発売されたシングル盤のジャケットでは「ドラえもんのルンバ」、現在発売されているCDでは「ドラえもんルンバ」となっている。どちらが正式タイトルかは不明。
タイトルに偽りなく、ドラえもんによる、実に哀愁があふれている歌。初代ドラえもん役の富田耕生が歌った。歌詞は、ドラえもんがメスネコにアプローチをして一度は振られるが、とうとう最後には「すてきだわ」と言ってもらえるようになり、ドラえもんが「やったやったぜ」と喜ぶというもの。
歌っているのが中年のおっさんなので、やたらと辛気くさい。最後は「やったやったぜ大成功」でめでたしめでたしのはずなのに、なぜか気が滅入ってしまう不思議な歌である。
オープニングと同様、F先生の作詞。旧ドラソング4曲のうち、唯一メジャー調の曲である。歌詞には「ヘリトンボ」「せんちかん」「ガスライター」「ゆめまくら」「ゆめコーダー」の5つの道具が登場して、その能力が歌われているが、「ヘリトンボ」が「タケコプター」に直されてしまった今となっては、時代を感じさせられる歌である。
※主題歌を収録したCD
「続・テレビまんが主題歌のあゆみ」(CCOCC-1633,1634):「ドラえもん」
「続・テレビまんが懐かしのB面コレクション」(CCOCC-10249,10250):「ドラえもんルンバ」
「新定番テレビアニメスーパーヒストリーVol.8」(CCOCC-70056):「ドラえもん」「ドラえもんルンバ」
「昭和キッズテレビ・シングルス Vol.8」(COCX-32223,32224):「ドラえもん」「ドラえもんルンバ」
(全てコロムビアミュージックエンタテインメントより発売)
「ドラえもんの最終回」または「ドラえもんが未来に帰る話」と言えば、てんとう虫コミックス6巻の「さようなら、ドラえもん」が有名。そして、旧ドラの最終回サブタイトルも「さようならドラえもんの巻」なのですが、原作の「さようなら、ドラえもん」とは全く違う話です。
旧ドラ最終話の詳しい内容はこちらを参照していただきたいのですが、そもそも旧ドラ最終回放映当時は、原作「さようなら、ドラえもん」はまだ描かれておらず、同じタイトルになったのは偶然でしょう。F先生が旧ドラ最終話を意識して「さようなら、ドラえもん」の題を付けた可能性も、無いとは言えませんが。
その他にも、旧ドラについて誤解されていることはいくつかあります。ここでは、そんなよくある間違いを取り上げてみました。
旧ドラはカラー放送である。日本で最後の白黒テレビアニメは1971年放映の「珍豪ムチャ兵衛」(東京ムービー制作)で、それ以降のテレビアニメは全てカラーで制作されている。「まんだらけZENBU」のセル画コーナーにしっかりとカラーで描かれた旧ドラセル画が登場したこともある。
しかし、旧ドラは白黒作品だと思っている人が結構いるようだ。放映当時旧ドラを見ていた人の場合は、自宅のテレビがまだ白黒テレビだったのだろう。そうではなく、旧ドラは未見という人の場合は、アニメ雑誌や書籍などに、ごくわずかに掲載されている旧ドラの写真がいずれもモノクロである(「アニメージュ」1979年4月号、1996年12月号、「テレビアニメ全集2」など)ために勘違いしてしまったのだと考えられる。
それにしても、なぜ現在見ることのできる旧ドラの図版が全てモノクロなのか。察するに、旧ドラのカラーの図版が残っていないのではないだろうか。そのため、昔使用した白黒写真を使い回していると考えられる。この想像が当たっているとすれば「旧ドラはフィルムが残っていない」と言う噂も信憑性が高いと言う事になる。
旧ドラスタッフに関する資料は少ないが、いくつかの本にメインスタッフに関する記載があり、どれを見ても脚本家として辻真先の名がある。辻氏は大ベテランの脚本家だが、氏がアニメ脚本の仕事の思い出をまとめた「テレビアニメ青春記」に、ドラえもんに関しては「旧作には一切参加していない」事を書いている。以下、その部分を引用する。
いま放映している『ドラえもん』は、実は二代目である。最初に放映したときには、まったくべつなプロダクションの制作で、ぼくもタッチしていなかった。というより、いったいいつはじまって、いつ終わったのかも知らないほど、影の薄い番組であった。
なぜ、どの資料にも辻氏の名があるのか疑問だが、氏はシンエイ版に関しては帯番組時代に数本の脚本を書いているので、旧ドラとシンエイ版初期が混同されたのかも知れない。また、シンエイ版放映開始以前の1978年に出版された「テレビアニメ全集2」で、既に辻氏の名前があることから、この時点で生じた間違いであり、以降の資料は全てこの本を元に作成したために、このような誤解が生まれたとも考えられる。
これも、資料等でよく見られる間違い。実際は26回なのだが、途中で1回プロ野球オールスター戦で番組がつぶれた日を放映日とカウントして27回としてしまったのだろう。
日本テレビ系列で放映された深夜番組「EXテレビ」で藤子・F・不二雄先生が出演して藤子特集が行われた際に、白黒時代からの歴代藤子アニメが順番に映像付きで紹介された。その時「ドラえもん」については、まず原作連載開始当時の学年誌が紹介された後、旧ドラの止め絵が1枚だけ映され、さらに続いてシンエイ版の映画「ドラえもん のび太の恐竜」のOPが流された。旧ドラの止め絵と「のび太の恐竜」が紹介された時にはそれぞれ画面下部に「日本テレビ系(昭和48年)」「テレビ朝日系(昭和54年〜)」とテロップが出たのだが、歌の方はずっと旧ドラ0P主題歌が流れっぱなしだったため、「のび太の恐竜」まで旧ドラだと勘違いしてしまった人が少なからずいたようである。
これは、「昔のドラえもんは「なのら」と言っていた」という噂(出所は漫画「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」か)を聞いた人が、「昔」を旧ドラの事と解釈して誤解してしまったのではないだろうか。
この噂自体は事実だが、この「昔」とは旧ドラではなく、原作及びシンエイ版アニメの初期作品の事である。原作については、単行本では全てセリフが修正されて「なのら」は消されてしまっているので、初出誌でしか確認できないが、シンエイ版アニメに関しては、セル版ビデオ・DVD第1巻収録の「N・Sワッペン」や映画「のび太の恐竜」でドラえもんが「なのら」と言っているのを聴く事が出来る。
これも、出所は分からないが、たまに聞く事がある説。しかし、裏番組であり、しかも旧ドラよりも放映期間の長かった「マジンガーZ」(1972年12月3日〜1974年9月1日まで放映)のDr.ヘル役は一度も休むことなく富田氏が声を当てていた事や、後継にまるで声質の違う野沢雅子を起用した(=富田ドラのイメージを引き継がせようとしなかった)事などから考えると、信憑性は低いだろう。
(追記)
この噂の真相と声優交代のいきさつに関しても、真佐美さんのサイトで語られているので、参照されたい。
シンエイ版放映開始から半年が経った1979年10月3日に、初めての1時間スペシャル「秋だ!一番 ドラえもん祭り」が放映された。この時に流れた「勉強べやのつりぼり」を旧ドラだと勘違いしている人が、たまにいるようだ。この話はシンエイ版のパイロットフィルムとして作られたため、キャラデザインや登場人物の服装・美術設定が放映版とは異なり、いつものシンエイ版とは違う印象があるため、旧ドラだと思ってしまったのだろう。このパイロット版は雑誌「ぼく、ドラえもん」創刊号付録のDVDに収録されているので、ぜひご覧になって確認していただきたい。
以上、旧ドラにまつわる謎について、自分なりにまとめてみました。私個人の主観がかなり入っている事を、はじめにお断りしておきます。実を言いますと、ここの文章を最初に書いた時には、旧ドラについてあまり詳しくは知らなかったせいもあり、多分に「失敗作」と言う偏見を持っていましたので、どちらかと言うと悪い方へ解釈して書いた部分が多かった事を、ここで申し上げます。
その後、旧ドラスタッフの真佐美ジュンさんから当時のお話をお聞きして、2006年には旧ドラ本編を実際に観た事で、旧ドラに対する私のイメージは、かなり変わりました。その、変わった部分について、一から書き直す事も考えましたが、一般的に旧ドラという作品が謎だった時代の、一ドラえもんファンの旧ドラに対するイメージを記録するために、あえて本文にはあまり手を入れず、事実誤認や勘違いについて追記を入れる形で対応しました。
冒頭にも書きましたように、このコーナーに対するご意見・ご感想・情報提供は、随時お待ちしております。掲示板かメール(トップページ下をご覧下さい)で、お願いいたします。